
「FAKE」を観た。
佐村河内氏の
薄暗い自宅での撮影。
ずっと撮ってますけど、
ここからは遠慮して欲しいというところは途中で止めますので
というような許可を取る
森達也監督。
佐村河内氏はほぼその自宅で
奥さんと愛猫と特に何をすることもなく暮らしている。
ドキュメントのみどころは
甲斐甲斐しく世話をし、
片時も離れない奥さん、
そして彼のところに来る
訪問客とのやりとり(奥さんの手話を交えた会話)。
訪問客は取材であったり、テレビ出演依頼だったりする。
訪問客のいない部屋で吐露されるのは
彼の本音らしいもの
「偽り」を暴かれてしまい、世間にそっぽを向かれた彼の
哀しみや
表に出て信用を得ている
新垣さん(やたら調子づいてることも含め)
佐村河内氏を
「ペテン師」と書いて本を出した
神山さんに対する
割り切れない気持ち、そのくすぶり。
監督との距離は近い。
しかし
それでいて
監督は彼を弁護する意味合いでこれを撮っていないのは明白だ。
巧妙だと思うのは
佐村河内氏側から見れば
「自分の生活を撮って」くれている
「自分の言い分を流して」くれている
「(新垣さんではなく)自分に密着して」くれている
のであり
紛れもなく
「監督は自分サイド」で
自分を信用しているという錯覚もするだろう。
だからこそ
警戒心の強い佐村河内氏が
ドキュメント映画を許したと思う。
何度か監督が
「私を信用しているか」
「私があなたを信じていると思うか?」
「
信じてるフリをしてるかも」
と訊いたりする。
「…そうであれば僕の責任だ」と佐村河内氏は答えるが、本意ではないだろう。
それによってむしろ
彼は監督を完全に信用してしまったように見える。
だが最後の
仕掛けについては
監督がどう持ちかけ、どう納得させたのか。
佐村河内氏も
どんなメンタリティでこれを受け入れ取り組んだのかは
謎だ。
監督が最後の仕掛けを撮ることで
映画として観客をFAKEしたわけだ。
映画としてのオチをつけたのだ。
しかし果たして全てを通じて佐村河内氏は何を得たのだろうか。
少し(?)の出演料と見合うだけの何かがあっただろうか。
佐村河内氏が映画を最後まで観ても
真の狙いまでは読み取れないだろう。
揶揄されてるようには思わないだろうし
森監督もそういう風(一見彼の味方のよう)に撮っている。
豆乳やほっぺ芸、猫を撫でる仕草
彼の人間臭さや妙な愛らしさは可笑しさをさそう。
稀代のペテン師という感じには見えない。
そこも
彼自身は狙っているわけではないだろうが
監督は狙っているのだ。
沿線の電車の騒音
意識的なカメラワークも
ついつい
「聞こえているのか否か」
「反応するのか否か」
見てしまう。
会話を手話で伝える
「
奥さんとの二人三脚は完璧かどうか」
ほころびはないか
疑惑の目で観察してしまうよう仕向けられている。(と思う)
直射日光がダメなはずでは?とか
杖は要らないのですね…
とか報道で観た過去の細かい記憶も蘇る。
映画の流れとしては
聞こえているという疑惑に対して
「
ほとんど聞こえていない、ゆがんで聞こえるのだ」
という訴えから
「新垣氏は全部作ったというが
構想は自分が作ったので共作なのだ」
という訴えに移る。
しかし外国人の記者に「作曲したなら
証拠を見せて」
「シンセはなぜ捨てたのか」など
厳しく追及され、まいってしまう場面も映し出される。
この映画の中では、
新垣氏や神山氏が「
森監督の取材を断った」と説明されており
何か不都合があるのか?
そこをもやもやさせるのも狙いかもしれない。
最後の仕掛け…に興じる彼(と奥さん)は自然だった。
監督の仕組んだ
「演技」をさらりと
いともたやすく違和感なくやってみせたのだ。それによって
彼(奥さんも含めた)は世間の上に立った気持ちでいるだろうか。
それによって
彼は
何かをさらに失ったのではないか。よくわからない。
ただ
監督の狙ったテーマは
グレーゾーンだと思う。
「この男はこう言っていて、こう振舞っている」
何がハッキリするということもないが、まあよく考えてくれ
貴方が見たり聞いたりしたことにも
虚構が混じっているかも。
ということではないか。
佐村河内氏は今日もあの部屋にいるのだろうか。
世界的な音楽家という地位も失墜し、
400人いた友人も消え去ったというが
彼を支えているのは
可愛い猫と優しい奥さんなのは間違いない。
posted by 彩賀ゆう at 13:50| 大分 ☔
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